あどけない話

  私は自分の半身を物語の中に忘れてきてしまったことに気づく。まれにではあったが、すごくおもしろい本に出会うと読み進める速さの余りこうなることがある。閉じた本はずしりと重く、火傷するほどに熱い。私は本を置いて、ぼんやりとした頭のまま、紅茶を淹れる。そうやって半身が物語を終えて出てくるのを待つのだ。
 紅茶が飲める程度に冷めるまで、私は物語のことを思い出そうとする。その中で私は狡猾な少女になっていた。そして、買ってもらったばかりの宇宙船で星空へと飛び立っていく。喜びと希望に満ちていた。自由に宇宙を飛び回れるという興奮が抑えきれないほどだった。それから、えっと……どうだったっけ。
「思いもしなかったことだけど、人類が成し得たことのない発見をするのよ」
 物語から戻ってきた私の半身が楽しそうに言う。そうだったわね、と私は相づちを打った。そうやって私たちはたくさんの話をする。彼女の行動について、他の作品との違いについて、物語の背景と設定について。
「でも、おもしろかったわ。思っていた以上にね」
 私は半身の言葉に大きく頷く。どれだけの説明を重ねようと、たったひとつの言葉だけで十分なのだった。おもしろいか、おもしろくないか。私はおもしろい物語を求めて読み続けている。
 読み終えた本を棚に戻し、ずらりと並んだ背表紙を見比べる。ある本は賑やかな音を鳴らし、またある本は玉虫色に輝き、誰かの手にとってもらう日を待ちあぐねているのだ。
「この世のあらゆる書物もおまえに幸福をもたらしはしない、だったっけ?」
 私の紅茶を勝手に飲んでいた半身が呟いた。それには続きがあるのを私は知っている。“だが、書物はひそかにおまえをおまえ自身の中に立ち帰らせる”。
 半身は軽やかな足取りで私と一緒に本棚の前に並んだ。機嫌良く鼻歌を歌いながら、背表紙の題名を指でなぞってゆく。
「さぁさ、皆様ご覧あれ。いかなる舞台がお望みでしょう? 溢るる涙の悲劇でも、快刀乱麻の喜劇でも、ご希望通りに致します。上手くできたら喝采を、お気に召さねば叱責を。私はそこに存在しない。あなたの御目に入るまでは」
 そうして、私たちはまた一冊の本を手に取った。万巻の書に勝るだろうかと淡い期待を込めながら。
 ゆっくりと最初の頁を開いたその時、そこには誰もいなくなる。
 ただ机の上に置かれた本が風にめくられているだけだった。