ミステリにおける殺人と現実

 今日は最近読んだ二冊の本について。まず初めはこちら。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

 著者のカポーティが五、六年の歳月をかけて、徹底的に収集したデータをまとめて現実に起こった事件の再現を行った最初にして最高のノンフィクション・ノベルです。
 舞台はカンザス州の片田舎ホルカム。そこに住んでいたクラッター一家四人(両親二人、その息子と娘)は、ある夜に押し入った二人の男に殺されてしまう。彼らが犯行を行った理由はなんなのか。
数多くの人々の証言(その中には犯人自身も含まれているだろう)を積み重ねて事件を浮き彫りにしていくその手法により、話は重厚さを増してゆく。ただ思うのは殺す方も殺される方も“人間である”ということ。そこには歴史があり、思考があり、苦悩がある。それゆえに『冷血』を読んだ人間の考えることは一つではないのだろうと思う。
 ある人は犯人のペリーは現代に潜む闇の象徴なのだと考えるだろう。ある人はテレビの向こうの事件と同じようにエンターテイメントとして読むのだろう。ある人は社会が悪いと嘆くかもしれない。
 私は具体的に物事を考えるのが苦手なために、とてもぼんやりとしたままの感想を抱いていることが多いのです。『冷血』に関しても、読み終わったあとに残ったものはぼんやりとしたものでした。ペリーの肩を持つわけでもなく、しかし、理解できないというわけでもない。強く印象に残ったのはペリー自身が言っているこんなセリフでした。

つまり、ものごとっていうのは、いったん起きると決まると、おれたちにできるのは、そうならないでくれと祈ることぐらいなんだ。あるいは、そうなってくれとな。(p168)