雲の隙間

 一人のウェイターが背中にパラシュートをつけて飛行機から飛び降りる。
 髪はしっかりと後ろに撫でつけ、上等な燕尾服を着て、一九九〇年産のシャトー・マルゴーを片手に空へと吸い込まれていく。風を切りながら一番大きな雲をを目指し、オペラのタイトルロールのように荘厳で優雅に舞い降りる。
 ウェイターは二、三度雲の上で跳ねて止まる。この季節の雲は大きくて分厚く、しっかりと安定していた。
 そこには女が魅惑的な赤い夜会服を着て待っている。退屈そうに足を組み、バーカウンターに肘をついて、ぼんやりと空を見ていた。退屈を興じる女という題名の絵にすれば映えるに違いない。
「アンドリュー伯爵はまだかしら? 一角獣のミートパイを注文しておきましたのに」
 艶めかしい深紅の唇が言葉を紡いだ。ウェイターは恭しく礼をして、いつもと同じ嘘をつく。
「南西の方角で積乱雲が発生しまして、少々到着が遅れているようです」
 それを聞いた女は不機嫌そうに首を振り、水たばこを吸う。甘い煙が辺りに漂って、綿雲と混ざり合った。そして、しなやかな足を組み替え、ツノガイに注がれたシャンパンで唇を潤す。
 こうやって、女は来るはずのないボーイフレンドをずっと待っていた。あの日から、この雲の上に四半世紀近くも居座っている。
 ウェイターは何度か女に真実を告げたことがあった。
 貴女の待ち人は来やしませんよ。夜の砂漠を飛ぶ郵便船を運転しながら、この空のもっともっと上まで昇っていってしまったのですよ、と。
 しかし、そのたびに女はくすくす笑い、同じことを繰り返し言うのだった。
「まぁ、冗談がお上手ね。でも、わたくしは今日の夜明け頃に、伯爵からの電信を頂いたのですよ。待っていてください。こちらの大陸にしかない、とても珍しい花を貴女に贈りますからね。だから、大きな花瓶とミートパイを用意しておいていてくださいね。わたくしはそう聞きましたの。あれはまごうことなく伯爵の声でしたわ」
 女の持つツノガイのグラスから垂れた水滴は雲海に染み込み、飽和状態というバランスを崩して雨を降らせる。
 女の代わりに雲が泣いている。雲はどこまでも広がり、世界中を悲しみの闇で閉ざし、氷点下の涙で埋め尽くしてしまう。
 どれほど泣こうとも、女の愛情が伯爵に届くことはない。伯爵はこの雲よりも遥か上にいるのだから。
 愛は重い。大気圧と空気の比重を超えて空に浮かぶことはない。
 だから、女はいつまでもここで漂っている。シャトー・マルゴーが陽の光でビネガーになってしまっても。一角獣のミートパイが来ることを信じて。アンドリュー伯爵がとても珍しく大きな花を持って現れ、笑いかけてくれることを待っている。
 今日もまた、ウェイターは飛行機から飛び降りる。それを受け止めるのは、愛という悲しみで出来た雲。