起源

 一人の少女が波で散らされた淡い光の届く海底で物憂げに椅子に座っている。
 遥か昔に難破船から振り落とされてしまったローズウッドの椅子の周りには、瑠璃色の珊瑚の森が広がっている。極彩色の魚たちは初めて見る美しい少女を、森の隙間から恥ずかしそうに見ていた。
 少女はときどきため息を吐き、その度に小さな泡が口から溢れている。いつしか珊瑚たちが互いの体を打ち鳴らして伴奏を始める。魚たちは曲に合わせて海の誇りを高らかに歌い上げる。
 興味を持った若いミノカサゴが少女の側に近寄って、口にくわえていた星の砂を贈る。新月の日にだけそっと海に落ちてくる貴重な輝きに少女は心を奪われた。
 ミノカサゴは自分の長い棘に気をつけながら事情を訪ねる。
「どうして君はこんなところにいるの?」
 少女は黙ったまま遠い水面を見上げる。差し込んでくる光は水に濾過された分だけ透明になっていく。海水の途方もない圧力が少女の肺を押さえつけて、泡に包まれた言葉を絞り出そうとする。
「あなただってときどきは海から出たくなるでしょう?」
 小魚の群れが二人の真上を通り過ぎ、海底には千鳥格子が描かれた。群れを狙ってさらに他の大きな群れが集まってくる。
 そこに少女が一際大きな泡を吐く。一番小さな魚たちの群れは、その泡に飛び込んでしまうとそのまま海面まで上がり、さらには空へと浮き上がっていってしまう。
 その様子をぼんやりと見ていたミノカサゴは顔をしかめた。
「人間は水の中では生きていけないよ。魚が陸に上がれないのと同じように」
 少女は誰もいない停留所でバスを待つように足をぶらぶらさせながら、拗ねたふりをして唇を尖らせている。フリルのついた赤い靴が波に揺れる。
「当たり前のことなんてつまらないわ。コーンフレークにミルクをかけるみたいにね」
 そう言うと少女はうつむき、落ちていた貝殻をつま先で突いて遊び始める。
 転がった貝殻の中から誰かの声が聞こえている。ミノカサゴはそっと貝に耳を近づけて聞いてみた。
 その声はまだ地上にいた頃の少女のものだった。貝の中の楽しそうな少女の笑い声は次第に小さくなっていく。喜びは悲しみに変わり、最後には微かな嗚咽しか聞こえなくなってしまう。
 全てを聞いて事情を知ったミノカサゴに触れようと、少女が手を伸ばす。しかし、ミノカサゴは体をひるがえして逃げてしまう。
「さわらないほうがいいよ。ケガをするかもしれない」
 それでも少女は手を差し出す。棘と棘の間にしなやかな指を這わせ、ミノカサゴをそっと包み込む。そして、自分の顔の前に持っていくと、柔らかな笑みを浮かべてキッスをした。
「これからも、ときどきここに来てもいいかしら? 陸には誰にも知られずに泣ける場所なんてないから」
 そうして、海に沈んだ孤独な椅子に持ち主ができる。ときどきだが少女がその椅子に座りにくるようになった。
 そのときにはここぞとばかりに海の中の楽団が音楽を奏でる。波間を抜けてきた光はスポットライトのように珊瑚礁を照らす。若いミノカサゴは付きっきりで少女の側にいて、優しい歌を唄う。海ほたるが星座になり、竜宮の使いが曲芸を披露する。少女の悲しみが水に溶けてなくなってしまうようにと。
 知っているかな?
 海はそうやって流した少女の涙で出来ているんだよ。