エントロピーの増大

 夜中に起こった停電のせいで、冷蔵庫に入っていたアイスクリームは溶けてしまっていた。きっと誰かが共用の電気羊に餌を与えるのを忘れたのだろう。それとも羊が年を取りすぎてしまったのか。どちらにせよ、後で電動物技師に見てもらわなくてはいけない。一度へそを曲げた彼らは素人の手に負えるものではないのだ。
 カップの底に残っていたほんの少しの思い出を舐めながら、私は配達された小包を受け取る。無骨なダンボール箱の中にはヴィンテージワインが数本と、眠りこけた父が入っていた。また母と喧嘩をしたに違いない。気に入らないものを郵送してしまうのは、母の悪い癖のひとつだった。
 つけっぱなしのラジオから聞こえてきた威勢の良い喇叭の音と共に目覚めた父は、勝手に私の部屋の模様替えを始める。水槽の中に本をぎっしりと詰め、中に入っていた熱帯魚は蜂蜜の瓶へと移し替えられた。私の使っていた枕には、そば殻のかわりに星の砂が入れられる。
「もうすぐ戦争が始まるのだ。わしは騎兵隊に志願しなくてはならん」
 数十年間同じことを言い続けた結果、ようやく父の待ち望んでいた戦争は始まった。それなのに父は次の戦争のことばかりを言う。そもそも馬の一匹もいなくなってしまったのに、騎兵隊などが組まれるはずはない。活躍しているのは最前線の楽団ぐらいのものだろうに。
 私は夕暮れから始まる舞踏会のための服を選び出す。薄い紫色で大きく背中が開いていて、なおかつとても脱ぎやすいドレス。その下には同じ色をしたガーターベルトの下着をはくつもりだ。
 革命を我らの手に、というスローガンと共に間の抜けた行進曲が流れてくる。父はシーラカンスのぬいぐるみにナイフを突き立てながら鼻歌を歌う。流された血は未来の糧に、討ち取りし首は過去の恥に。
 冷蔵庫の中に残っていた卵はいつの間にか孵ってしまい、三匹のヒヨコが端の方でうずくまっていた。ほとんどの野菜は彼らに食べられてしまっていて、私は仕方なくベーコンだけを焼いて食べることにした。
「夜になったら、パーティに行ってきますからね。とっても素敵なダンスパーティに」
「あぁ、好きにするといい。ただし、オルフェウスの奴らには気をつけろ。あいつらには節操という言葉は知らないんだ。全く悪食にもほどがある」
 冷蔵庫から抜け出したヒヨコたちは一目散に外を目指す。可哀想に、そのうちの一匹が父に捕まって背中を撫でられた。ヒヨコは世界の終わりが来たような声でか細く鳴いた。
 柱時計が夜の始まりを告げて、今日の戦いの時間が終わる。カラシニコフを担いだ傭兵たちは欠伸をしながら家々へ帰って行く。ラジオは今日の戦果を伝えている。敵味方共に死傷者は無し。今日もよくできました。明日も仲良く安全に戦いましょう。
 私は象牙の櫛で髪をとかして身支度を調える。そして、得意のワルツのステップを頭の中で繰り返す。
「この街は最低だな。昔はこうじゃなかった」父は頭にヒヨコを乗せながら言う。
「昔はもっと最低だったのよ。年を経て悪くなるのは人間と牛乳だけ」
 私は父とヒヨコをダンボールに詰め直して、綺麗に封をする。宛名に母の名前を書き、ソドムからゴモラへと書いた。その荷物は玄関先にいた六枚羽の天使に渡して、私は颯爽とパーティへと向かう。
 街のどこかで歓声が上がった。きっと、また一つの物語が終わったのだ。