またデザインを変えた

 小説や音楽とかのいわゆる創作といわれるものには、その作り手の精神状態が色濃く反映されています(職人芸はその逆でいかなる時も同じ品質のものを作らなくてはならない)。
 個人的な判断基準として、その作品に“孤独”が見えるかというものがあります。
 言葉で表すのはとても難しいのですが、それはどんなに明るい作品であれ、あるいは暗鬱な作品であれ、その“孤独”はひっそりと行間に潜んでいたりするのです。しかし“孤独”がない作品を作る人にはどうがんばっても“孤独”は表現することができませんし、その逆もまた然りです。ちなみに“孤独”の有無は作品の優劣には関係ないとだけ言っておきましょう。
 ただ、自分の琴線に触れるものは“孤独”を感じるものが多いことは確かです。前々から伊坂幸太郎作品はひと味足りない、と感じているのもおそらく“孤独”が欠けているからでしょうし、他にも何か足りないなぁと思う作品(乙一とか西尾維新とか)も同じ“孤独”の欠如が理由のものは多いと思います。
 じゃあ、その“孤独”ってなんだよと思うのですが、それが分かれば苦労はないのですよ。私は評論家ではないし、そもそも作品の分析をするのが大の苦手なのでなんとなくそういうものがあるという程度でしか話せません。
 そもそも“孤独”という表現も的確ではなく、“寂しさ”であったり“冷笑”であったり、なんだかよくわからない混沌としたものの寄せ集めというものなのです。それを的確に表現できたなら、もう少しおもしろいものも書けるのかもしれないのだけれど、曖昧なものを曖昧なままにしておくのもいいかなぁと思います。
 あー、自分で書いててよくわかんないや>ダメじゃん。

 「つまり」と彼は断言した。「もし一五歳の時に不格好で冴えないやつだったら、そいつは一生不格好で冴えないやつだってことだ。それこそ死ぬまで。いつも冴えないやつなんだ。何年経とうが、結婚して子供が出来ようが、それこそ夢にも思わなかったほど成功しようが、やっぱり昔みんなに笑われた冴えないやつなんだ。そいつは絶対に変わらない。それが自分なんだから」
 デイヴィッド・ハンドラー『女優志願』より