あまやどり

 アパートのドアがノックされた。聡志はこんな雨の降る夜中に訪ねてきそうな人物を何人か思い浮かべる。その誰もがろくな奴ではなかった。できれば居留守を使いたいのだが、部屋の蛍光灯を点けてしまっていてはそれもできない。ため息をつき、仕方なく入り口の鍵を開けに行く。覘き窓から見た訪問者の姿は一番嫌な相手だった。
「やっほう」ドアを開けると、貴子は片手を上げてそう言った。
 聡志は無言で彼女を見つめている。
「中に入れてや。今、彼女とかおれへんやろ」貴子はにこやかに言う。
「またか?」聡志は答えがわかっていることを訊いた。馬鹿馬鹿しいと思う。しかし、それ以外にかける言葉も見あたらないのだ。
 貴子は頷いた。そして、聡志が了承してもいないのに勝手に部屋に上がり込んでいく。
「待てや」聡志は肩を掴んで制止した。「体濡れてるやん。タオル持ってくるから待っとけ」
 体を拭いても服は濡れたままなので、聡志はTシャツとジーンズを渡し、着替えさせた。
「優しいなぁ、聡志は」背中を向けたまま着替える貴子が言った。「今まで出会った男の子の中でいっちばん優しい」
「ほんなら、付き合ってくれや」聡志は白い背中に言った。
「それはでけへん」彼女はきっぱりと断る。
 聡志も冗談で言っているのではない。いつだって真面目だ。
「俺のこと嫌いなんやもんな」
「そうや。聡志のことは嫌いやから付き合われへん。アホやし、将来性ないしな」
 聡志は手慣れた手つきでコーヒーを二人分淹れた。貴子には砂糖を二個。自分には一個。二人はしばらく無言でコーヒーを飲んだ。テレビの無意味な音声だけが部屋の中に響く。
 やがて、貴子はゆっくりと聡志に近づき、膝の上に乗った。ぎし、と少しだけフローリングの床が軋んだ。
「キス、して」
 いつものように、貴子は言う。
 聡志は言われたとおりにする。いつだってそうだった。聡志は貴子に従い、貴子は聡志に依存する。これで四回目だ。聡志はキスの回数を数えている。それは同時に貴子が傷ついた数でもある。他の男が貴子を傷つけるのだ。
 唇だけを合わせる。きっちり三秒間。それが二人の間に生まれたルール。
「ヤニくさ」貴子は少しだけ口の端を上げた。悲しみを誤魔化すための笑み。あと何度、そんな表情を見なくてはいけないのだろうと聡志は思う。「煙草はやめや。体に悪いし、そもそも似合ってへん」
「いままでそんなこと言わへんかったのに」
「とにかくやめて。煙草嫌いやねん」
 そして、二人は同じベッドで眠る。手を繋いで、お互いの存在を確かめ合いながら安心して眠る。遥か昔、幼稚園にいた頃と同じように。
「愛してる、愛してる、愛してる」
 聡志は貴子の耳元で囁く。
 彼女の耳には届かない。あるいは届いていても成就されることはない。
 傷口に貼る絆創膏のように、一時的に頼るだけの存在。
 それに甘んじている自分は情けないのだろうか。
 聡志は体を起こして煙草を探す。口にくわえ、ライターで火を点けようとして、右手を握る暖かさを思い出した。
「アホらし」聡志は煙草をまだ中身が残っている箱ごとゴミ箱に投げた。
 それは放物線を描きながら飛んでいって、見事に的から外れた。