薄気味の悪いもの

 先週の日曜日に近くの市民ホールで夜回り先生こと水谷修氏の講演があったらしいです。前々からこの人はきっと性善説を信じてる人で、性悪説を貫く私としては合わないなぁと思っていました。基本的にはやっていることは素晴らしいことだと思うし、否定するつもりは全くないけど。
 で、もう一人○○先生といえば有名なのが、ヤンキー先生こと義家弘介氏。こっちはあんまり賛同できないかな? 国会の教育基本法見直しなんたら委員会とかでいじめ問題について話しているときに、「イジめている方には何らかの罰を与えるべき」的なことを言っていたのはだけは納得。つまりのところ自分自身の経験則から、そういうことをするやつは言っても聞く相手じゃないというのがわかっているのでしょう。ハムラビ法典を見習えということですね(笑)。
 で、この人たちのやっていることで一人でも救われるのなら、それは十二分に意味のあることだし、誰にも文句を言われる筋合いはない。好評の数だけ悪評も増えるというのが世の常でしょう。


 問題はそんな彼らですら食い物にしようとする、そんな悪童がこの世にいるということです。その存在に一度気づいてしまうとそのおぞましさに鳥肌が立ってしまいます。
 初めは一人が崇高な目的を掲げて立ち上げた。それに賛同した仲間たちが少しずつ増えてくる。やがて、なんらかの方法で一定の影響力を持つようになり、さらに仲間を増やすべく意気軒昂に勝ちどきを上げる。しかし、いつのまにか初めの一人の背中には誰かの手が入っていて、勝手に口がパクパク動いていた。なんてことは珍しくありません。
 そんな黒子が丸見えで隠そうともしていなかったのが、最近で言うと世界バレーでしょう。あそこの客席に座っている観客の何割が“バレーファン”だったのでしょうか。テレビで見る限り日本戦以外の客席は、日曜の市民体育館でやるママさんバレー以下の人数でした。人気アイドル歌手と無闇にキャラ付けされる選手。……見ている方をバカにしているとしか思えません。
 そんな気持ちの悪い雰囲気が少しずつ上記の二人に見え隠れしているような気がするのです。全く個人的な意見で、おそらく本人は気づいていない、あるいは周りが完全に管理しているのではないかと思います。


 はっきりとした言葉では表しにくいのですが、“これはいいのか?”というものが増えてきて(あるいは前からあったものに気づきだして)、頭を金田一耕助ばりにぐしゃぐしゃとしたくなることがあります。考えれば考えるほど訳が分からなくなって、何が書きたいかすらわからずに、支離滅裂で整合性のない文章をかいているのです。
 “事実は小説より奇なり”ではなく“事実は小説より不条理なり”というところでしょうか……。

 そら、科学だ。どいつもこいつもまた飛びついた。肉体のためにも魂のためにも、――臨終の聖餐、――医学もあれば哲学もある、――たかが万病の妙薬と恰好をつけた俗謡さ。それに王子様らの慰みかそれとも御法度の戯れか、やれ地理学、やれ天文学、機械学、化学……
 科学。新貴族。進歩。世界は進む。なぜ逆戻りはいけないのだろう。
 これが大衆の夢である。
 ――――ランボー『地獄の季節』より