邪魔な涙、邪魔な汗
やっと死のバイト週間が終了したと思ったら、すぐ後にまた死ねるイベントがあるので身も心もボロボロでございますよ。殺せ、いっそ殺してくれ。
『ハチミツとクローバー』がアニメ化したり、映画化したりとメディアミックスして人気が出ている。その効果でうちの店でもマンガが売れてるし、羽海野チカ様々なのである。
実は私もかなり最初の方から読んでいて、まぁ、おもしろいと思うから売れるのも分かるのだけれど、最近一般的な“恋愛マンガ”という読み方をしていないことに気づいた。じゃあ、なんなんだよと聞かれると困るのだけれどあえて言うなら“ダメ人間マンガ”ではないかと思う。ファンの人は怒るかもしれないけど、私はそう思うから仕方ないじゃん。
どこがどうとかはっきりと言えないんだけど、なんだかダメ人間オーラが出ているような、そんな気がする。この前のCoccoの話と似ているけれど、そういうダメな部分のドロッとしたものがわからないように綺麗にラッピングしてある感じがする。そのラッピングは青春とか恋愛とかいう名前なんだけどさ。
ちょうど今日『学校へ行こう』がやっていて、チャンネルを変えている途中にちょっとだけ見たんだけど、相変わらず意味が分からないことをやっていた。今でもやっているのかどうだか知らないんだけど、昔、青年の主張だか青少年の主張だか言う学校の屋上で学生が叫ぶコーナー*1があって、それがやたらと流行っていた時期があった。
私は全く興味がなかったので、友達の話を聞いて初めて知ってからテレビで見たんだけど、何がおもしろいのかさっぱりわからなかった。その時は中学生ぐらいの男の子が告白してたっけ。あとは自分の夢とかいろいろあった。結局それっきり見なかったけど。
何が言いたいかというと、そういうものがおもしろいと思う人に向けてテレビは作られているっていうことなのだ。
勿論マイノリティに対して商品を作っても利益は望めない。テレビ然り、マンガ然り、小説然り。
マジョリティに受け入れられるには、ある程度の薄さが必要なのは分かっている。
小説を例にすると、ベストセラー小説というのは普段小説を読まない層に売る必要がある。取っつきやすい、クセがない、読みやすい。どれも同じ意味の言葉なのだけれど、つまりのところ、それはほとんどの場合質の低下に繋がってしまう。読書好きというマイノリティの切り捨てがここで行われている。
出版社も慈善事業ではないため、売れる本を刷り、売れない本は作らない。山田悠○とか、Yosh○とか、そういう本を読んだ人たちの何人が普通の小説に手を伸ばすだろうか。長期的に見て、首を絞めているのは誰の手なのか考えてみてもいいかもしれない。
別に文学作品を読むべきだとかそんなことは言わないけれど(私自身ライトノベル出身だし)、本当におもしろいものを読んでこそ読書好きになるんじゃないかな、と普通のことを思ってみたり。
回り道したり、違う道に行ったり、何が言いたいのかわからなくなってきたから無理矢理まとめてみるけど、私が感じる限り、多数派が陽、少数派が陰とすることが多いように思う。明るいばっかりで陰がないものに違和感を感じないというのは、少々不自然かもしれない。
物事に厚みがなく、薄っぺらいものが溢れている。と言うと、どこかの大学教授が言うような画一的な発言と同じかもしれないけれど、まさにそう感じることが多い。
要は八百長疑惑のボクシングとか、未来ある若者を酷使して感動と言い張る甲子園とか、そういう薄っぺらいものに興味はないってことと、たぶん大抵のものは私のようなダメ人間に対しては作られていないという自覚だけは持っておこうってことで。
……もうちょっと論理的というか、整合性のある文章を書けよ>自分。
物を言へといふのか?
笑へといふのか?
よし、よし、俺は知つてゐる。
恋は媚のとりやりだ。
悲しい女!
少し待つてくれ、少し。
ほんの少しの間。
今一寸、一寸笑へなくなつた。
俺には悪いくせがある。
――――啄木詩集より