私たちの共通項

 Coccoのアルバム『クムイウタ』が中古で売っていたので購入しました。前々からCoccoは良いらしいという噂を耳にしていたのです。最近、活動復帰したらしいしちょうどいいかなぁ、なんて。
 そして、じっくりと聞いた結果。

 ど真ん中のストライク。

 あぁ、なんで今まで聞いてなかったんだろう。良い歌だなぁ。
 正直な話、流行りの歌なんて全く聞かなくて、そもそも音楽自体ものすごく限定されたミュージシャンのものしか聞かない。邦楽だとゆらゆら帝国とか鬼束ちひろとか。洋楽ならディープパープル、ドアーズ、キングクリムゾンとかのロック大御所か、マイルス・デイヴィスコルトレーンとかこれまたジャズ大御所。それからクラシックがちょっとと、後はエンヤくらい。でも、一番好きなのは、オーケンこと大槻ケンヂ関係(筋肉少女帯、特撮など)だったりする。


 で、Coccoの話に戻るのだけど、どうも歌を聞く限り“こっち側”の人じゃないかという気がする。いわゆる青春時代というやつを陰々滅々と過ごし、正体不明のものに対してもがき苦しんでいたあの頃があったというか。極端に言えば、自分をダメ人間だと認識している人というか、圧倒的なマイノリティに類された人というか。うー、よくわかんない。
 とりあえず、私が思ったことはCoccoオーケンは似てるっていうこと。曲調とか音楽性とかは全く違うけど、歌に込めている“思い”の根本は同じ気がするのだ。

 オーケンの歌が好きだという理由の一つに、ダメ人間を歌うというものがある。それはダメ人間自体を歌い上げることもあるし、ダメ人間に対して歌っているということもある。私の好きな曲で『戦え!何を! 人生を!』という五分半ほどの間に、そのタイトルの言葉を100回近く連呼するトンデモナイものがある。ダメ人間だからこそ人生を戦え。オーケンの歌詞にはそんなメッセージが度々姿を変えて現れる。珍奇な詞と共に、思いの丈を叫び続けている。

 Coccoオーケンのように直接的ではない。でも、その詞の中には巧みに隠された言葉がある。このアルバムの歌に共通しているのは“恐怖と不安”で、その怖さはたぶんわかる人にしかわからない類のものなのだと思う。もしかしたら、ダメ人間とはその漠然としたものをもっている人間ではないか、とも思う。

 例えば、こういう人格の場合は譲れないものがあって、でもそこには現実が立ちはだかることがある。それを顕著に示すのは筋肉少女帯の『タイアップ』、Coccoの『焼け野が原』という二つの曲。いわゆる音楽の商業主義の壁にぶつかって、その果てに出した結論がこの曲だったりする。
 「コアなファン 捨てても欲しい タイアップ」という一句から始まり、「オレを見ろ! アーティストだぜ」と閉めるオーケン。それはなんだか自虐的で、自分を嘲笑しているように聞こえる。
 対してCoccoは「どこまでも歩いていけるような気がしていた」と言いながら、「でも寒くて、とても寒くて歩けないよ」と閉める。そしてこの歌詞の通り、この曲を最後に彼女は活動休止をする。

 彼らの歌は流行という大きな流れになることはないのだろうと思います。でも、そのせせらぎはどんな流れよりも人々の心の奥にまで届き、長く愛され続けることでしょう。