違和感と伊予柑はあんまり似てない

 筋肉少女帯の『鉄道少年の憩』っていう曲を聴いていて思ったこと。
 恋愛っていうのは、肉体的なものなのか、精神的なものなのかどっちだろう? なんか中学生みたいな
疑問だけど、まぁいいか。
 歌の中で少年は心が肉体から逃げ出してしまうのだけれど、なんだか、それはちょうど思春期の葛藤みたいなものに直結しているのかもしれないと思う。つまりは恋愛という妄想的な現象と、性欲という実質的な問題が同一線上に結びつけられないんじゃないかなということ。なんでそう思うかというと、それは私自身もいまだに答え出ていないことだからなのだ。


 人を好きになったとき、果たしてその人の何を好きになったのだろうか、と考えてみる。もちろんその人を構成する全ての要素の総合で好きになったんだろうけど、どこか気持ち悪いものが残っている気がする。
 その気持ち悪いものの一つが、イケメンというもの。
 私は人の美醜というものに興味がない。友達がジャニーズとかにキャーキャー言っていたときにも、全く興味がなかった。映画なんかを見てカッコいいと思うことがあっても、それは人物の生き様であったり、映像技術ばかりで俳優自体はどうでもよかったりする。だから、イケメンというものに価値を見いだせないでいる。
 好きになった人がたまたまイケメンだったというのなら理解できるのだけれども、イケメンが好きだという感覚は理解できない。顔なんて所詮骨格と脂肪と筋肉の集まりじゃないか、思うのは不自然? ある一つの要素だけで一生二人で生きていけるほど好きになれるの? わっかんないなぁ。


 高校の同じ部活だった男の子が、自分はかっこよくないってことで悩んでいたことがあった(そこまで深刻じゃなかったけど)。ていうか、そいつが部長で、私が副部長だったから、一緒に行動することが多くてそういう話もした。確かに初対面は取っつきにくいかもしれないけど、おもしろいし良いやつなのだ。今でもたまに一緒に遊びに行ったりもするくらい仲がいい。なんてことを言うと、実は好きなんじゃねーのなんて邪推されるかもしれないけど、ホントに仲のいい友達なのだ。詳しくは言えないけど、向こうもそう思ってるのを確認してるし。
 もしも、私とそいつが今から恋人同士になるとしたら、今までの友人関係とはなんの変化があるだろうか。二人で映画に行ったこともある。焼き肉も行ったし、居酒屋で飲んだこともあるし、USJにも行った。……こうやって書くと、ホントに付き合ってるのと変わらないなぁ。はっきり言って、してないのは接吻と交尾だけじゃないか?
 こうやって見ると、恋愛と友情の“行為”の違いというのはその二点ぐらいではないだろうか。
 もちろん精神性の違いが一番大きなものなのだろうとは思う。いちばん疎かになりやすいところではあるけれど。


 肉体に恋をするのではなく、金銭に恋をするのでもなく、純粋に人間が人間たる精神の交わりというものが本当の恋愛だとするならば、あまりにもマニュアル化されすぎた“恋愛”に何の意味があるだろうか。入れ物をいくら美しく飾っても、中に入っているものがつまらなければ意味はないように思う。


 最後にどんなに理想論を語っても、現実は現実だということを言わなくてはいけない。
 『鉄道少年の憩』で逃げ出した少年の心は、レールを辿って追ってきた自分の肉体につかまってしまい、オーケンは悲痛な叫びでこう歌う。

 “心は再び箱の中、薄桃色の肉の檻、心はまたまた肉の奴隷。精神性など午睡の夢だ”