表題未定

 その胸に魅せられた矢は
 苦しめることを忘れてしまった
 そこでかれは その特性を放棄した毒を
 鎮痛剤と思った――

                ――――エミリ・ディキンソン「その胸に魅せられた矢は」


 あまりの暑さと喉の渇きにうなされて、エンリケは時間もわからない夜中に起きてしまった。薄い毛布から抜け出すとさっきまでの暑さはどこかに逃げてしまい、汗で濡れた服が体温を奪おうとする。まだ茫洋とした頭のまま、おもむろにシャツを脱いで上半身は裸になる。そして、クローゼットへ着替えを取りに行こうとしたところで、やっと辺りの違和感に気づいた。
 いつもなら窓の外から“工場”の光が差し込んでいて、星々よりも明るく部屋の中を照らしている。この街のどこからでもあの光は見えるはずで、光が絶えたことなど長い歴史の中で一度だってなかった。それなのに、部屋の中は漆黒で満たされていた。おとなしいはずの闇の動物たちがどこかで唸っている。“工場”の光は彼らを牽制する役目もあったのだ、とエンリケは改めて思い出す。明らかに異常事態であることだけは認識できた。
 記憶の中で部屋の形を確認し、触覚だけを頼りに窓までにじり寄る。擦り切れかけている役目を果たしていない遮光カーテンを開けても、窓の向こうは何も見えなかった。街全体が暗闇の底に沈んでいる。こんなに大きな暗闇は初めてだった。たまに小さなものが降りてきて、些細なトラブルを起こしていく。それは電動物の機能を狂わせたり、電波の流れを乱していくくらいのものだ。勿論それ以上の重大な危機に陥らないように幾重もの安全設備を巡らし、街中を常に修理師たちが警備している。それなのにこんな惨事が起こってしまったということは、この街にいる全ての想像を超えていたということだ。
 エンリケは唾を飲み込んだが、その感触は小石のそれによく似ていた。自分はどうするべきかと考え、暗闇の前には全くと言っていいほど手立てがないことを思い知らされた。それから、自分が住むイーヴァ荘の住人たちはどうしているかと耳を傾けたが、全ての音は闇の静けさに吸収されてしまっていた。暗闇を震わせられるのは等しく暗闇に住むものたちだけなのだ。エンリケは外を見るのをやめ、かろうじて聞こえる自分自身の心音と呼吸器の音で落ち着きを取り戻す。とにかく大いなる陽が全てを薙ぎ払ってくれるのを待つしかない。本当にどうしようもないのだ。
 エンリケは再び寝床へ戻る。寝転がってから、自分がまだ上半身に何も着ていないのを思い出したが、再び暗闇の中に立つ勇気はなかった。それは街の住人全てに言えることだったので、誰も批難できるはずはなかった。


 その夜の出来事は実際の時間に換算すれば、ほんの数十分のことだった。しかし、光の存在しない完全なる暗闇の中では、通常の時間の概念が通じない。粘度の高い水の中で早く手をかこうとしても無理なのと同じだ。
 エンリケは目を覚ますと、すぐに窓から街を見渡して平穏の回復を確かめた。予想していたような大きな混乱はまだ起こっていないようだった。それでも多くの電動物たちはその影響を受けているだろう。エンリケはしばらく続くであろう仕事の忙しさを思い、頭を抱えた。
 すぐにでも“工場”へ向かおうかと思ったが、まずは一番近い電動物を確認しておかなくてはいけなかった。愛用の仕事鞄を肩にかけ、イーヴァ荘の飼育部屋に向かうとすでに幾人かの住人が集まっていた。エンリケは簡単な挨拶を交わし、部屋の中に入る。電気羊のメアリは見た目にはいつもと変わりはなかった。三日月を横たえた目をこちらに向けてやる気がなさそうに鳴く。エンリケは羊の傍らに屈み、側面の毛皮に手を差し込んだ。そうしてユニットを開けると中には電源管や振動計が並び、その横に“工場”のエンブレムが現れる。電動物管理士の資格を持つ者しかユニットの検査は許されていない。
 羊のメアリの内部機構に異常は確認されなかった。多少の数値変化は見られたが、それはメアリ自身の老朽化のせいだろう。一つだけ気になったのは、ここ最近エネルギーが補給されていないことだった。エンリケは壁に貼ってある飼育当番表を見る。四日ごとに交代するようになっていて、イーヴァ荘の部屋数を考えると、二ヶ月に一度ほど当番がやってくる計算になる。
 一昨日から当番になっていたのは、エンリケの隣の部屋に住む、ラ・チェラという若い女性だった。彼女は街で一番大きな歓楽街、黒猫通りにある娼館で働いている。それゆえか生活習慣が他の住人とは噛み合っていなかった。だが、そのことを気にする住人はイーヴァ荘には少ない。彼らもまた少なからず奇人たちだからだ。そして、ラ・チェラは昼間には怠惰にも眠っていることが多いらしく、メアリの世話も忘れがちになってしまうのだった。
 エンリケは壁から垂れ下がっているチューブを引っ張り、羊のメアリのえさ箱へ差し込む。そして、レバーを引くとノズルの先からは色とりどりのカプセルが転がり出てきた。羊が小さな声で鳴きながらえさ箱が一杯になるまでじっと待っている間に、飼育部屋に備え付けてある丈夫な櫛で毛皮を梳かす。電動物である彼らに毛皮の汚れは何の影響もないはずなのだが、実際にはまめに梳くことで発電量も増えることが多い。おそらく本当の動物だった頃の名残だろうという説が有力ではあるが、はっきりと断言できるほどの説得力もないものでもない。大雑把に全体を撫で終えると、チューブを元の所に戻した。えさ箱の中に入っている分量だと丸一日は残っているだろう。羊の口元へ自分の手を持っていくと、柔らかな臼歯で甘噛みされた。エンリケはもう一度頭を撫でてから、飼育部屋を後にした。
 まだ部屋の外で談笑していた住人たちには、なにか問題が起きたら連絡するように言っておいた。それから早急に“工場”へ向かわなくてはならなかったのだが、イーヴァ荘の古ぼけた玄関ロビーを出てすぐの階段に女性が横たわっているのを見つけてしまった。薄紫の夜行服を着て、手には中身が少ししか残っていないワインボトルを握りしめていた。エンリケは仰向けで寝ていた女性を横に向けてから、イーヴァ荘の中に引き返し、一番近くの部屋の住人から水をもらって出てくる。頭を持ち上げて水を口に含ませると彼女は薄目を開け、エンリケを見上げた。髪の色と同じ漆黒の瞳が収縮する。
「お水をもう一杯いただけないかしら。できれば、もう少し冷えているのがいいわ」女性はまだ火照っている顔で微笑んだ。
「君が飲み過ぎるなんて珍しいね、ラ・チェラ。石畳の方が寝心地が良いというのなら話は変わってくるんだけれど、僕としては清潔なシーツをひいたベッドで寝ることをすすめるよ」
「あら、そんなことをしたら、こうやってあなたに介抱してもらえなくなるじゃない。あなたにかまわれたいのよ、わたしって」
 ラ・チェラは上体を起こし、そのまま階段に腰掛けた。ワインボトルは横に置いて代わりに水の入ったコップを受け取る。一口、二口と飲んでから、ふうとため息をはいた。
「昨日は大変だったわ。これからお客さんが来る時間帯だっていうのに、あんなことがあったでしょう? みんな怖がって家から出てきやしないのよ。仕方ないからみんなでお酒でも飲みましょうって」と、彼女はボトルを指ではじいた。
「だったら、なおさら自分の部屋に戻って休むといい。それとメアリの世話も忘れずに」
「わぁ、すっかり忘れてたわ。あの羊ちゃんはまだ元気かしら。ふかふかの毛が汚れたりしてるんじゃない?」ラ・チェラは階段の手すりにつかまって立ち上がろうとする。その拍子にワインボトルに足が当たって倒れてしまった。彼女は小首を傾げた。「わたしの代わりに植物たちが飲んでくれるわ。それにあんまり上等なお酒じゃなかったのよ、このワイン」
 エンリケは彼女の肩を抱いて部屋まで連れて行こうとしたが、ラ・チェラは大丈夫だと言って笑った。
「それじゃあ、僕はいい加減仕事へ行かないといけない。中の階段も気をつけるんだよ」
「優しいったらないわね。わたしったら三歳児に戻っちゃったみたい。一度かまわれると、もっとかまってほしくなっちゃうのよ。ねぇ、エンリケ。今夜わたしの部屋に来ない? もちろん、黒猫通りの方だけど」
 そういうラ・チェラの目はさっきより潤いが増しているように見えた。そうやって、たくさんの男たちが瞳の海に溺れていったのだ。彼らの体はどこにも打ち上げられず、いまだに深さの知れない海に漂っている。
「遠慮しておくよ。知ってるだろう? リリアはすごく嫉妬深いんだ。君が僕の隣の部屋にいるってだけで嫌われているくらいにね」
 リリアとは一年と少し前から交際しているエンリケの恋人の名前である。彼が勤める“工場”の事務所で働いていて、二人はそこで知り合った。一度エンリケの部屋に来たときに偶然ラ・チェラと出くわしたことがあり、それ以来目の敵のように嫌っている。二人の間に特にいざこざがあったというわけではないのに。
「もちろんそれは知ってるわ。でもね……」と、ラ・チェラは意味ありげに首を振った。その表情はどこかおもしろがっているようにも見え、あるいは刑の宣告をする前の裁判官の顔にも見えた。「わたし、すごく珍しいものを見ちゃったの。すごく、すごぉく珍しいものよ」
「それと僕が関係あるっていうのか?」エンリケは少しだけ眉をひそめた。
「教えてあげるのは今夜。それくらいの駆け引きはしてもいいと思うの。でも気をつけて。仔猫はすごく気が変わりやすいのよ。月が昇って沈んだら、昨日のことは忘れてる。……判断は自分でするのね」
 ラ・チェラは石畳をピンヒールで鳴らし、くるりと回った。淡い紫が花のように広がって、そのまま扉の向こうに滑り込んでいってしまう。
 からん、と硬質の音がしてエンリケは足下を見た。すっかり空になったワインボトルが足に引っかかって止まっている。一歩下がるとボトルは再び転がりだし、傾斜の緩い道をゆっくりと下っていった。彼は行く先をしばらく目で追っていたが、やがて俯いて頭を振った。そして、ボトルが向かった反対側へと歩き出す。どこかで硝子の割れた音が聞こえたが、それはきっと気のせいだとエンリケは自分に言い聞かせた。