僕らの舞台は行ってしまった

「地球上からアリというアリがいなくなってしまったことで、アリクイたちはアイデンティティを失ってしまったのです」
 ブランドのスーツを着たアリクイは寂しそうにそう言った。大変なのでしょうね、と男はメモをする手を止めて、彼と同じように沈痛な面持ちで頷いた。


 アリクイが男に指定してきた場所は、彼が普段暮らしている動物園からほど近い小さな昆虫博物館の休憩室だった。館内は薄暗く、ライトアップされた展示物が闇の中に浮かび上がっている。幻想的な模様をした蝶たちの標本。ガラスケースの中で育成されているコガネムシやカミキリムシ。カブトムシが卵から孵化して成体になるまでの過程を記録した映像がモニタに映され、その隣には世界中の甲虫が並べられていた。しかし、どれだけ探しても、その中にアリは一匹もいない。
「確かにわたしたちアリクイは、アリ以外のものも食べることはできるのです。現にわたしだって普段は専用の食事を食べています。たまに敷地に迷い込んできたアリを食べることはあっても、野生に生きる仲間たちのようにアリのみで胃袋を満たすことはありません」
 そう言いながら、アリクイは自分で持ってきた水筒からどろりとした白っぽい液体を注いで見せる。それは彼が普段食べている食事であった。男は液体を注いだ水筒のふたを受け取り匂いを嗅いだ。試しに少し舐めてみたが、生臭く食べられたものではなかった。アリクイは笑いながら、実はアリよりも美味しいのですよと言った。
 アリがいなくなった理由はなにもわかっていない。ある日突然、地球上のもっとも数の多い生き物がいなくなったのだ。それに気づいたのは人間では昆虫学者であったが、それよりも先にアリクイたちが気づいていた。
「あなたはどうしてアリがいなくなったと思われますか」
 男がその質問をすると、アリクイは少しの間黙って俯いていた。博物館の中は静かで、見に来ている客もたまにしか見かけなかった。ときどきケースの中でカサカサと落ち葉の音がするだけだ。
「いなくなってしまった今はどんな仮説だって立てられますし、それで誰かを責めることは簡単です。問題はいなくなる兆候を誰も感じ取れなかったことなのだと思います」アリクイは考え込むように指を組んだ。長い爪が硬い音を立てる。「わたしたちは捕食対象としてしかアリたちを見ていなかった。しかし、それは自然の摂理というものでしかなかったのです。言い訳じみた言葉にしか聞こえないのですけどね」
 人間はどうなのだろう、と男は訊かれているのがわかった。この話を記事にするために調べたメモを見返し、その度に書き留めておいた自分の考えも読んだ。世界中のどこにでもいて、最も身近であろう昆虫の一種。子供の頃に昆虫図鑑かなにかで読んだような浅い知識しか持っていなかった。人間とアリの関係はあまりに希薄だったのだ。
 失礼、と男は立ち上がり、そばにあった自動販売機でコーヒーを買った。ことりと紙コップが落ちてきて、機械が液体の調合を始める。
「人間は今回のことに余り興味を示していません。ちょうど同じ頃に大きな事件が起こっていましてね。それを知りたがるために必死だったんです」男は振り返らずに言った。
「他の動物たちも同じような反応でしたよ。騒いでいるのはわたしたちを含む、ほんの一部の動物だけ。本当にそれくらいの出来事かもしれませんけど」アリクイは長い舌を出して、自分の持ってきた食事を食べている。
 自動販売機から取り出した紙コップは異常に熱く、男は思わずこぼしてしまいそうになった。慎重に縁を持って椅子へと戻り、休憩がてらに二人は関係のない雑談を始めた。
 彼はオオアリクイという種族で、生まれは動物園だった。故郷の南アメリカは知識として知っていても実際に行ったことはないのだそうだ。一度行ってみたい気持ちはないかと男が聞くと、彼は頭を振った。
「見たことのないものを懐かしいとは思いませんね。でも、行ってみたいという思いはあります。アリクイとしての血がそうさせるのかはわかりませんが、単なる好奇心かもしれません」
 話している二人の横を通り過ぎて、一人の少年が展示室へと入っていった。少しだけ会話が止まって、二人は少年を目で追い始める。少年は展示物のひとつひとつを熱心に見ては、持っていたノートにメモをしていく。時にはその姿をスケッチし、注釈を加えていた。その様子を見ているアリクイの目は少年を通り越して、遠くの方を見ているような気がした。
「きっと実質的な問題が起こるのはわたしたちの世代ではなく、子供や孫たちの世代でしょう」アリクイは頭を掻いて、腕の毛を舐めた。「アリというものを知らない彼らが、本当に“アリクイ”としてアイデンティティを確立できるかどうか。それこそ今のわたしたちには考えることしかできません。憂うことはできても、行動としては何もできない。問題に立ち向かい解決するのは彼ら自身の課題なのです。しかし、そんな重荷を背負わせることが心苦しいとは思いませんか。彼らの自由を阻害することなど、わたしたちの誰にだって許されてはいないのです」
 男は適度に冷めたコーヒーに口をつけた。そして、ため息よりも弱い声で呟いた。「人間は……」
「いまなんと?」アリクイは瞬きをした。
「人間はいったい何をアイデンティティとしているんだろう。そもそも“人間”という言葉の意味がわからない。そんなことを思いましてね」
 あぁ、とアリクイは感嘆した。それから目を細めて男の顔を見ている。男にはなんだかその表情が微笑を浮かべているようにも見えたのだった。「そういうことはきっと哲学者に任せるべきなのでしょうね。出口も入り口もない迷路をぐるぐると回っても、無駄に疲れてしまうだけです」
 そんなものでしょうか、と男は肩をすくめた。
 そうしているうちにさっきの子供が展示室から出てきて飲み物を買い、二人の隣の椅子に座った。すると、アリクイはおもむろに子供の方に向いて話しかけ始めた。「虫が好きなのかい?」
 子供は笑顔で頷いた。そしてアリクイは子供からノートを借りて目を通し始める。ふむふむと小さな声で呟きながらページをめくり、途中、昔に書いたと思われるアリのページで手が止まった。
「アリはどうしていなくなったと思う?」アリクイはさっき男が訊かれたことを、今度は子供に訊いた。
 子供は首を捻り、しばらく考えていた。そして、わかりません、と言った後、少年はコップの中の水面に視線を落とした。「間違っているのはアリなんでしょうか。それとも、アリ以外なのでしょうか」
 アリクイは眉根を寄せて考え込むような仕草をした。そして、おもむろにポケットから丸いものを取り出して少年に見せた。それは小さな琥珀で、中には一匹のアリが閉じこめられていた。少年は目を丸くしてアリクイを見た。彼はにこやかに頷く。
「これは世界で最後のアリなんだ」アリクイはそう言うと、少年の手の平に琥珀を乗せた。「彼らが姿を消す前の日に、偶然その琥珀の中に一匹が迷い込んだ。そして、彼はその中で自分の時間を止めた」
 少年は蛍光灯に琥珀を透かしてみた。微少の傷からなる光の反射の中に、一匹の黒い虫が漂っている。
「もしかしたら、そこで眠るアリは仲間がいなくなった理由を知っているかもしれない。でも、僕の力では彼の目を覚ますことはできない」アリクイは琥珀を返そうとした少年の手をそのままそっと閉じた。「これは君にあげよう。最後のアリを眠りから覚まし、真実を知りたいと思うのならば」
 初め少年は戸惑っていたが、手の中の琥珀を見つめ、そしてもう一度握りしめた。わかりました、とまっすぐにアリクイの目を見ながら少年は頷く。
 アリクイは目を細めて少年の頭を撫でた。丁寧にお辞儀をして少年は博物館を後にした。その背中が見えなくなってから、男は口を開いた。
「よかったんですか。貴重なものだったのでしょう? 標本や人工飼育のアリですらいなくなってしまったのに。もしかして、本当にあれが現存する唯一のアリだったのではないですか?」
 いいのですよ、とアリクイは口の端を持ち上げた。「わたしたちの時代はすでに過ぎ去ってしまっているのです。アリクイたちの間では“その体、死して蟻塚となれ”という言葉があります。その言葉通り、わたしにできることはできる限りのことを未来に残すことしかできません」
 館内アナウンスがまもなく閉館の時間だと告げた。そんな時間かと男はメモを鞄に戻し、アリクイと握手を交わした。「ありがとうございました。これでいい記事を書くことができます」
「いえいえ、こちらこそ無駄に話し込んでしまいました。愚痴を聞かせてしまって申し訳ないです。お仕事がんばってください」
 そして、アリクイは鞄の肩ひもを掛け、会釈をしてその場を去っていく。しかし、その途中で何かを思い出したように振り返ったので、男はどうかしましたかと訊いた。
「そもそもの話なのですが……」
 少し彼は口籠もった。喉に引っかかるものを無理矢理飲み込むかのように唾を嚥下し、再び話を続ける。
「わたしたちはアリクイと言われていますが、実はシロアリを食べている種も多く存在します。でも、シロアリは生物学上の分類ではアリ科ではなく、節足動物、すなわちゴキブリやなんかの方が近い生き物なのです」
「それはいったい……」何の話なのか、と男が聞き返そうとしたが、アリクイはそれを遮るように言葉を続けた。
「“アリクイ”という名前は人間に名付けられました。その人間がシロアリを食べているわたしたちを見て“アリクイ”としたならば? 姿が似ているだけでアリと呼称されているシロアリを食べているのが“アリクイ”になってしまうのではないですか? だとすれば、今までわたしたちが持っていたアイデンティティはいったいなんだったのか。初めから“アリクイ”ですらなかった。そして、本物がいなくなってしまった今、偽物は偽物でなくなり、その偽物を支えとしてきた生き物は……。冷静に考えると、アイデンティティなんてものは、元より存在しなかったのかもしれません。わたしたちはずっと幻想にすがっていたんです。疑問を抱くことなく、与えられたままのことを享受していただけだった……」
 男は堅く口を閉ざしたままその話を聞き終えた。しばらく二人は黙ったまま立ちつくしていた。ふとアリクイは微笑むように息を漏らし、それではまた、と今度こそ男の前から去っていった。
 一人になった部屋の中でカリカリとガラスを引っ掻く音がしている。虫たちが複眼で男の姿を見ていた。そこにもやはりアリはいない。男は一番近くのケースを覗き込む。そこには何もいなかった。代わりにクロオオアリと書かれたプレートが置かれている。
 男は空のケースを見つめ続け、職員に追い出されるまでその場を離れようとはしなかった。


 数日経って出来上がった原稿を渡したその夜、男はシティホテルの一室であのアリクイがいなくなったことをニュースで知った。時間合わせのように地方ニュースを流す時間帯で、テレビの中のキャスターは、偶然にもあのときのアリクイと同じスーツを着ていた。
 シャワーを終えた後だった男は、アリクイのいなくなった檻の中を写す画面をぼんやりと見ていた。コップに注いだビールが泡を立てている。水滴がコップの表面を伝い、テーブルの上を濡らしていく。
 その時、不意をつくようにフロントからの電話が鳴り、男に手紙が届いていると言った。しばらくしてボーイがその手紙を持って部屋を訪れた。男はボーイに適当につかんだチップを渡す。良い夜を、とボーイがにこやかに言っていたが、返事もせずに乱暴にドアを閉めた。
 それはやはりアリクイからの手紙だった。男はペーパーナイフで丁寧に開封した。彼の言葉は便箋数枚にわたっていた。
 バスルームから裸の女が出てきて、濡れた髪を拭きながら鼻歌を歌う。しかし、男が手紙を読みながら泣いているのを見て、女はその隣にそっと座った。彼女は腕で男の頭を優しく抱いて、どうしたの、と囁く。なんでもない、と男は唇を震わせた。
 女はそのまま男を胸に抱く。男の静かな嗚咽はしばらく続いた。
 それから、なんでもないんだ、ともう一度だけ呟いた。


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